生きがいを持った母と、それを可能にしてくれた”仕組み”
緊急事態宣言は解除されたものの、コロナ禍で外出自粛のムードはまあまだ続いている。
先日、遠く離れた実家の母から電話が来て、明るく朗らかな笑い声を聞くことができてほっとした。
母は80歳代。20年前に父を亡くしてからは一人暮らしだ。
妹は比較的近くに住んではいるが、毎日仕事や家族の面倒に追われる忙しい身だ。その上母の世話までも加わり、妹の負担は大きくなっていた。
母は家族には毒舌なこともあり、数年前は妹と母との間で口論も増えていた。
そのせいで、おおらかな性格の妹がとても追い込まれていた。
私は母も心配だが、疲弊していく妹のことも心配だった。
とはいえ、実家には飛行機でしか帰れない距離にいる自分には臨機応変に助けることができずにいた。
離れていても、始終側にいなくても、母・妹・私の3人が協力して何か一つのことをやれないだろうか?もしそれができれば、母は生きがいを感じられるし、母と妹の緊張は緩和していくのではないか?
私は考えた。
母は裁縫上手で、暇さえあれば何かを作っている。
近所でお年寄り仲間の間でも褒めてもらえているようで、嬉しそうだ。
これでなにかできないだろうか?それぞれが今の場所にいながら。
父が生きていた頃は、母が褒められるとか、母に面と向かって感謝するとか、そういうことはうちの家庭では皆無だったように思う。
以前母は常に何かに不満を持っている人で、口をひらけばネガティブな言葉ばかり吐いていた。子どもだった私はそれを聞くのが嫌で母が苦手だった。自然と距離を取るようになっていった。
今思えば、家族が全員揃っていた頃は、私は母の本当の性格や良さを知らなかったように思う。
母が家族への貢献以外のことで、母自身のことで世間から認められること、承認される方法はないだろうか?それがあれば生きがいにもなるのではないだろうか?
そこで、母が得意の裁縫で製作したものを私が販売してみることにした。
母が作ったものを近くに住んでいる妹が検品した上で私に送り、私がネットで販売する。
購入してくださった方から短いけれど温かいメッセージが届く。
それを妹経由で母に見てもらう。
母はとても喜んだ。
どこの誰とも存じ上げない人が、気に入って買ってくださって、そこにメッセージまでくれてと、ネットを普段活用しない母には信じられないような現象だった。
正直、利益にはほとんどなっていない。
しかしそれは問題ではない。この”仕組み”が私たち親子にはかけがえのないものになっている。
3人がそれぞれの役割で協力しあって、一つのことを行っていく。そこに第三者からの評価もいただける。励みになる、また頑張れる。
以前はぶつかりやすくなっていた妹との関係もずいぶん変化した。
今では母と妹で次回作の構想を練ったり、妹も真似をして作ってみたり、互いにダメ出しをしたり、知恵を出し合ったり・・・。二人はもともとハンドメイドが得意なのでそういうやりとりも楽しそうだ。
写真:pixabay
一つのものを一緒に作り上げていく横の関係になることで、二人は無駄にベガティぶな傷つけあいをしなくなった。母は、忙しい中をぬって足を運んでくれる妹をねぎらえるようになった。
先日母と電話をした時の言葉。
「コロナで外出できなくて、家に閉じこもっている期間が長くなってるけど、わたしにはこれ(裁縫と販売)があってとてもよかった。打ち込めることがあるから、引きこもることで精神的に追い込まれることもなかった」
明るく、嬉しそうに話してくれる母。
そこには子どもの頃には知らなかったネガティブでない母がいた。
そして、この仕組みに「購入」という形で参加くださっている見知らぬみなさんにとても感謝している。作品と金銭の交換以上のものを私たち3人にもたらしてくださっているから。
「新しい日常」に思うこと
コロナ禍で我々の暮らしがどうなっていくのか、
それをこのところずっと考えていた。
「元には戻らない新しい日常」とはどんなことをいうのだろうか?
その答えをいろいろと探していたところに、宮田先生の記事に出会った。
もともとはリーマンショックの頃に「非日常が新しい常態になる」という意味で用いられたものであり、今回はその時とも違う意味合いを帯びることから「新しい日常」と言い方になったそうです。
私たちが慣れ親しんだ日常にはもう戻れない。
非日常だったものが日常になっていく。
先生は記事の中で、詰め込み型の学習についての見直し等、いくつかの例をあげておられます。
読んでいて感じたのは、
これらのことって今まで全くなかった発想というよりは、皆がどこかで薄っすら抱いていた疑問であり、でもそれを声高に叫んだり押し進めようとするには痛みが伴うからなんとなく隅に置いておこう、みたいな扱いをしていた、でもとても大事な懸案事項のことなんじゃないかなってこと。
本当は向き合わないといけないけど回避していたこと、に向き合わざるを得なくなったってことかな。
そしてそれは、あらゆるジャンルで「真価」が問われる時代になるということなのかもしれない。
本当に値打ちにある授業
ただ出社するだけでなく成果を出していく
我々個々人のあり方が突き詰められる時代にもなっていくのかもしれない。
さて、自分はどうか?
ワタシはコロナ禍の自粛生活になってからの方が忙しくなった。
まだ成果になるかもわからないけれど、ワタシにとっての「新しいこと」を試行錯誤し始めている。
ワタシにとって楽しく、やりがいがあり、価値のあることを。
精神論と科学の使いどころを間違えない
自粛期間中ですが、本日は出勤日。
不織布マスクは買えないので、苦手なお裁縫で作った手作りマスクで(縫い目ガッタガタ)いざ出陣です(^◇^)/ 〜
なぜ常勤は在宅ワークなのに、非常勤は出勤なの???
と、先週来イライラはしておりますが・・Σ(-᷅_-᷄๑)
・・・いったん、置いといて・・・
さて、最近、コロナ禍で考えたこと、行動したことを書いておりますが
www.soramachi.work
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今回はもっと真面目に。
コロナ対策で成功していたり、国民からの支持を得られている国のリーダーというのは、精神論と科学、テクノロジーといった具体をちゃんと分けて両立させているように思う。
ニューヨーク市長やドイツのメルケル首相など、具体的数字やリーダーとして民を守る強い意思、そのための曖昧なお願いではなく具体的な行動と制限の提示がわかりやすく伝わってくる。
コロナ対策でドイツメルケル首相の全ドイツ国民に向けたスピーチ(日本語訳付き) Oster- Ansager von Merkel mit japanischem Untertitel
日本には曖昧であることや察するといったことで独自の文化や芸術を生んできた側面があるので、それが一概に悪いとは思わないけれど、非常時に「曖昧なまま」は代償が大きすぎるし、何より「国民を、国を守る」ことが達成されない。
精神論が無用というわけではないけれど、平時ではそれで済むことも非常時では歯が立たなくなる。相手はこちらの意思や精神とは次元の違う領域のものだから。ならば、その領域の専門性(科学やテクノロジー)が最新で安全な環境で対峙できるよう整えていくことが具体的な行動ではないだろうか。
医療、疫学、看護、公衆衛生、介護。
いつ「あっ」という間に命が悪化するかもしれない最前線の現場の環境を物理的に物質的に具体的に整えていくことが必須だ。残念ながら間に合っていない現状がある。
そこを曖昧にしたままの精神論はどこか無責任だ。
平時と非常時のメッセージのあり方、行動のやり方は違っていて当たり前だろう。状況が違うのだから。その状況に一番沿った言葉を意思表明と具体策・行動に国民は支持するのだと思う。
さて、私は私のできるささやかで最大な「具体」を今日もやろう。
・マスク必須(たとえ縫い目ガタガタでも)
・通勤にも公共交通機関避ける(たとえガソリン代が自腹でも)
・買い物頻度は可能な限り小さくする(冷蔵庫とにらめっこの日々)
・自炊する(外食死ぬほど好きだけど)
・外勤がない今を活用して必要な資料をバンバン作る(やってやる〜!)
・宅配物を運んでくださる方に優しくする(いつもですよ♪)
よしっ!
おうち時間、せっかくだから「大!拭き掃除」でリラックス
自粛期間になってもワタシの仕事は在宅にはならず(T_T)、仕事には普通に出かけているけれど、休日はほとんど家で過ごしている。
最初は軟禁状態のような窮屈感を感じていたけれど、たっぷり家にいる時間があることに慣れてくると、今まで生活をおろそかにいていたなあ、とシミジミ思う。
もともと仕事大好きなので(^_^;)、仕事>暮らし、というワタシなんだけれど、実は生活とか暮らしっていう足元が整っていないと仕事にも集中できないんだよね。薄々わかってたんだけどね(⌒-⌒; )。
散らかりっぱなしの部屋、
埃が積もった床の隅、
長いこと磨いてないのでくすんできたヤカン・・・
そういった生活のそれぞれの側面が視野に入ってくると心がザワザワして落ち着かない。落ち着かないまま仕事に出かけ、帰ってきてまた視野に入ると疲れがなかなか取れない。
掃除って、生活環境を整えるって、実はそれ以外の自分の活動を心地よく集中できるための土台なんだと感じる。
で、
今日は、気の遠くなるくらい長い時間やらずにいた大・大・大拭き掃除大会♪♪をやりましたよ!
最後はユーカリのアロマオイル水で拭き上げ。
ハーブがかすかに香るすがすがしい部屋になりました。
掃除って、やってる間はしんどかったりするけれど、やった後は精神的には元気になるんだよね。
そして、仕事にも集中しやすくなる。
せっかくのおうち時間。
新しいことをスタートしつつ、今までなかなか手をかけてこなかった生活環境の丁寧な整えをやっている。
お題「#おうち時間」
コロナ禍で変わる世界 〜コワゴワ変わり始めたワタシ〜
前回、コロナ禍で「もう元の世界には戻れない」となれば、どう前進するかを考えた。
元に戻れないということは、未知の、わかっていない世界に進むしかないってことだ。
安心信仰の日本人にはコワイ事態だけれど、どうせ変わっていくなら他から流されて変化を強要されるよりは自分で自分のスタイルで変わっていきたい。
よしっ!
と思いたち、ビジネス用のサイトを作成し学習系動画を配信してみた。
一日中作業してヘトヘトになった(^_^;)
一日まるまるかかったけれど、やれました(^ - ^)。
やれたら、やる前のコワサは和らぎ、
「なんだ、未知はやり始めたら怖くなくなるんだ」
と当たり前のことを実感した。
「安心」て、日本では疑いようのない美徳のようにみんなが思い込んだりしているけれど、そこには「停滞」とか「思考停止」とか「変われない」というマイナスな側面もあると思う。自分も含めて。
でも、この100年に一度の疫病の襲来で強制的に「安心」に留まれなくなっていく。それは安心の綿の中の住人でいられなくなってくることだ。
ならば、知恵と工夫とちょっぴりの勇気で自分から変わってみよう。
コワサとの戦いでもあるけど、
そこを少し乗り越えると安堵とともに自信になるんだよね(^_^)。
#コロナ #元に戻れない #変化 #安心
コロナで仕事や生活はどう変わっていくんだろう<前提の転換>
コロナ禍で世界中が悲しみや恐怖、緊張に包まれながらの生活が続いていますが、すでに「もう元の世界には戻れない」という見解を示す方々も増えてきました。「戻れない」をどう受けとめていくのかについて、私の心持ちの変遷を綴ってみたいと思います。
「コロナ前には戻れない」を受け入れにくい理由
日本では休校期間を5月6日までと一旦定めたことで(おそらく変更されていくだろうが)なんとなく「それまでの我慢だろう」「そのあとは元の生活に戻るだろう」という気持ちが我々の中にあるのではないだろうか。私自身も少し前までそうだった。
でも今は「感染が終息しても我々の生活は元には戻らないのかもしれない」とようやく思えるようになった。
「ようやく」というのは、「戻れない」ということを薄々気づいていたけれど、気持ちとして受け入れられなかったから。「元に戻れるんだ、だから今は頑張る」で頑張れていたからだと思う。
でも、もう戻れないとしたら?
受け入れられずにいたのは、未知の世界にまず恐怖を抱くから。
わからないことに人は不安を感じるから。
何よりも安心を求める人たちにとっては、「変わる」ということは脅威だから。
ちょっと厳しめに言えば、受け身で生きていられる安心を手放すのは怖いからかな。
前進には前提を変える勇気が必要
でも私は「そろそろ前提を変えて、前に進もう」と思い始めた。
未知=恐怖、何かとっても悪くなること、
とは限らず、
未知=まだわかっていない
ということに過ぎないのだから。
マクロなことはまだ私にはわからないけど、ミクロなことからは考えられる。
自分の暮らし、仕事のあり方。
・インドアなライフスタイルを自分の性格的にマッチするよう楽しむ工夫は?
・今の仕事は今後も存続できるだろうか?できるならどんな形に変容させていく必要があるだろうか?できないなら、どんなことにトライしていけばいいだろうか?
・そもそも、家に居られる時間をもっと有効に使えないだろうか?
「元に戻る」ことをイライラして待つだけで過ごすのは生産的ではないし、前進できない。
ちょっと怖いけれど、以前とは違う暮らしを前向きに受け止めて準備していける自分になりたい。そう、受け身ではなく主体的に生活を作るのだ。
そう思ったら、怖かったけれど少しワクワクしてきた。
そして、ちょっとずつ具体的なアイデアが浮かんできた。
不思議だ。
受け身で安心していられた時は自分からアイデアなんて思いつかないのに。
思わずそんなゲンキンな自分に笑ってしまう。
未知は敵でもなんでもなく、主体的に楽しんでいく世界なのかもしれない。
いろいろな角度から情報を得て自分で考える
わたしはもともとあまりテレビを見ない方で、必要なときはニュースで情報を得ていた。
あの東日本大震災の時、私は当初テレビにかじりついていた。しかし、日本のテレビはどのチャンネルも同じ映像、同じ内容を流し続けていた。
津波で流される映像だった。
確かに、今何が起きているかを危機感持って伝えることは大事なのだけど、見ているこちらは恐怖と閉塞感、そして「何もできることはないのかもしれない」という無力感がだんだん芽生えてくるのを感じた。
とても気が滅入り、テレビの画面だけが世界のような錯覚に陥っていった。
そこで、インターネットで海外の報道を見るようにした。どんな見出しで、どんな映像を使っていて、どんなことを報道しているのか。
そしたら、全然違った。
もちろん悲惨な映像での報告もあるのだが、救出できていることや、全体像としてこんなかんじだとか、人々がこうやって助け合っているとか、こういうことが
効果あったとか。
つまり、負の面だけでなく、希望とか打開する道筋とかも併せて報道していたのだ。そこで私の中に蔓延し始めていた「無力感」が解消され始め「なんとかしたい」という前向きな気持ちが蘇ってきた。
そして、今回のコロナ新型肺炎。
私は国内の報道に頼る割合はかなり小さくなり、Twitterやインターネットなどを介していろいろな角度から知ろうとしている。
ネガティブな情報一辺倒な報道が本当に必要な部分はあるものの、いつしか視聴者を無力化させていないかについても検討できるといいのに、と思う。
「Twitterやインターネットだって正しいか疑問だよ」
そう意見ももちろんあると思う。
私が思うのは、
一つの情報源を盲信するのではなく、多角的に見ていくこと、そしてその上で自分で考えることが大事なのではないか、ということなんだ。