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仏教用語の「差別」(しゃべつ)は「多様性の尊重」

建長寺を拝観した。

その時に小冊子をいただいた。
仏教情報誌「ムディター」。2019年7月に発行されたものらしい。

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その中の、種村健二朗氏の

『「自分決めたことだから」という無意識の差別』

を拝読した。

安楽死の意思決定について書かれたもので、44歳の女性がこれ以上の人工透析を望まないという意思を示したとのことで透析は中断。それによって女性は死亡したことが書かれている。

氏はこの件について、仏教でいう「差別」(しゃべつ)の心で対応して欲しかった、と述べられている。

この件についての詳細は同誌にてお読みいただきたい思う。また、2020年1月20日NHKおはよう日本」の中でも関連ニュースが取り上げられていた。


私が衝撃を受けたのは、「差別」という言葉の意味が我々一般の世界と仏教の世界とでは真逆だということだった。

”「差別」と書いて「しゃべつ」と読み、異なったものを排除するのではなく、「ひとりひとりの違いを認めて平等に大切にしてゆこう」という仏教文化

と書かれている。

恥ずかしながら私は全く知らなかった。
「差別」という言葉の意味は一つしかないと思い込んでいたし、
真逆の意味と精神を持つ言葉として自分の住む国にもそれは昔から存在していた、ということも知らなかったのだ。

私は仏教徒ではないし、仏教を礼賛する目的で書くのではないが、
仏教が古来人民に行ってきた数々の救済事業を思い起こすと、この「しゃべつ」の精神があったからこそというような理解ができていく。
「ああ、そうか、そうだったのか」
という感じで納得できていったのだ。
そしてやはり、強烈なネガティブさを付帯する「差別」という言葉が全く逆の意味で存在することの不思議さ、人間世界の奥深さも感じた。

昔からあったもの
受け継がれていたはずのこと
知られなくなってしまったこと
知らないで生きていること

いろいろ考えさせられてしまった。

私は福祉分野に携わっている者として、とても恥ずかしい気持ちになったし、
逆にどこかでこれまでと違う希望を持てたような気もした。
うまく書けないのだけれど。

もし、同じような気持ちになった方がおられたら、私のこの「うまく書けない、希望を持てた気持ち」を解説いただきたいなあと思う(笑)。