行く気がないのに申し込んで、ドタキャンする人に思うこと
普段から疑問に思っていた「向学心」と「ドタキャン」の関係について、私なりの答えが出たので書いてみようと思う。
【目次】
またまたドタキャンする常連
とある学習会に参加した。
主催者によると、当初の相当を大きく上回っての申込数とのことだった。
来られている方々を見まわしてみると、学校の先生方、市町村の虐待対応の職員さん、福祉職、弁護士さん、などなど。
どう考えてもご多忙な方々なのだ。「時間に余裕があったから参加した」とはとても思えない。
なのに開始時間に大きく遅れることもなくきっちり集まって、熱心に学んでいかれる。
私も仲間とともに参加した。
開始10分前くらいに、知り合い2人から連絡が入った。
欠席の連絡であった。
理由はいつも同じ
私は驚くこともなく淡々と受けた。
いつものことだからだ。
2人はこういった「ためになりそう」な機会には必ず申し込む。「とても楽しみです!」と意気込みも添える。でも、9割の確率でドタキャンする。
その理由もいつも同じで、
・「仕事が終わらなくて」
・「子どものお迎えがあって」
である。
そして、「行きたかった」、「残念だ」、「資料だけはほしい」と言う。
最初の頃は言葉をうのみにしていたが、毎度毎度となると信じられなくなってしまった。
参加できている人は工夫している
参加しているこの人たちが彼女らよりも暇だとは私には全く思えない。
参加している方々の中にも、お子さんがおられる方も少なくない。
この学習会は1ヶ月以上前から申し込み受け付けされていた。参加した方々は、この一ヶ月の間に仕事の段取りをつけ、子どものお迎えの家族に頼み、参加できるよう準備を整えたに違いない。
「時間がない」とよく言う人がいるが、私は「時間は作るものだ」と思っている。
だから、申し訳ないが、2人については時間を作ってまで参加しようという気持ちがなかったのだと私は思っている。
言葉よりも行動が事実を語る
「定員より多くの申し込みがあり、お断りもせざるを得なかった」と主催者が話していた。
2人がドタキャンしたその2席に座りたかった人がいるのだ。「なんとももったいない」と私は思ってしまう。
なぜ、行きもいないのに申し込むのか。そしていとも簡単に、毎度ドタキャンするのか。申し訳ないが私にはどうしても理解できない。
彼女らに出会って2年が経過した。最初の頃は言葉から感じる勉強熱心さや向上心の高さなどに感動し、こちらもいろいろな情報を提供していた。彼女らの学習意慾の一助になれば、と思ってのことだった。
しかし、その行動は言葉とはとても乖離していた。資料はほしがるのだが、それを活かして何かをするわけでもなく、そもそも提供したことが1年経っても2年経っても身についていないのだ。
そのことに気づくのに2年もかかった自分にも苦笑してしまうけれど。
都合をやりくりして毎回参加している他の仲間たちは、確実に腕を上げている。驚くほどの上達ぶりだ。
言葉と行動が一致すれば結果は自ずと出るのだなあ、といまさらながら実感している。